銀盤の舞-フィギュアスケートエトセトラ-

スポナビ+ブログから引っ越してきました。

技術力と演技構成点の隙間に、揺れ動く心の糸

9月15日付に更新した記事「hang in there!—今の時代に必要な言葉—」で、チャゲアス(CHAGEandASKA)について少し触れたのだが、

10数年ぶり、いや、20年近くになる・・・私がチャゲアス(CHAGEandASKA)から離れていた期間は。

デビュー曲の「ひとり咲き」や「万里の河」、「男と女」「モーニングムーン」等、初期の作品が好きだったため、「SAY YES」を受け入れるのに私は時間を要した(苦笑)。

・・・チャゲアスフィギュアスケートを、どうやって結びつけるわけ?・・・

人は、時として、何かに打ちのめされることがある。

自信をなくすことがある。

目標を見失うことがある。

自分を見失うことがある。

夢を見出だせないことがある。

素直になれないことがある。

心の眼鏡が曇って何も見えなくなることがある。

隣の芝生が青く見えることがある。

世界で一番自分が辛いと思うことがある。

お昼のメニューを、カレーライスにしようか、ハンバーグにしようか、些細なことに悩むことがある。

接点がない退職する人へのメッセージを書いてとカードを渡されるたび、無理矢理「思い出の箱」を捻りだしがら、心が伴わない上辺の言葉に、我ながら納得がいかないことがある・・・。

技術に秀でた選手の技術が優れているのはよく分かりつつ、技術力と演技構成点の隙間に、いつも心の糸が、揺れ動いて仕方ないことがある・・・。

そう・・・。

チャゲアスは今、無期限活動停止中のため、チャゲアス好きな私のような人間は、過去の映像や音源を楽しむしかないのだが、ASKA(旧表記:飛鳥涼)の声質や歌い方が、「あの頃と違う」と違和感を抱いてるというコメントを目にすることがある。

あの頃とは、「SAY YES」の頃だと思われるが、今のASKAには、紆余曲折乗り越えてきた大人の男の“生きざま”とでも言おうか、重厚感や色気が、「その声」には新しく加味されたと私は感じていて、むしろ味わい深くさえある。

彼等の今日までの歩み、映像、音楽、パフォーマンス、ASKAが表現する詞(詩)の世界感・・・まるで浦島太郎が竜宮城から戻ってきたように、空白の記憶を埋めるべく、私は今、それらを日毎「確認するように」味わい続けている中で、ふと、考えさせられた。

フィギュアスケートを応援しながら、毎度の如く、技術点と演技構成点との関係に、時に小さく、特に大きく首を傾げていること自体に、「何の意味があるんだろう・・・??」。

(あくまで、己に対する自問自答である。)

アレクセイ・ヤグディンの映像を久しぶりに見た。

ソルトレイクシティ五輪で披露した、ショートプログラム「ウィンター」。名プログラムと言われているプログラムだ。

ヤグディンのそれを見ながら、余計に感じたのは、

演技構成点の役割を見つめ直さないといけないんではないか?—

ヤグディンは、ひとつひとつの動作がゆったり大きいため、「今、何をしているか」が素人目にも分かりやすい。

すると、応援する側も演技に集中しやすい。

勿論、選曲とコスチュームも関係しているが、ヤグディンの私が思う魅力は、「分かりやすい」振付けと、ひとつひとつ丁寧に演じる彼の技術を兼ね備えた上で表現出来る、内面と外面の一体感にある。

人を惹き付けるというのは、技術力だけではない。

内面と外面との絡み合いが必須だと私は思う。

ヤグディンの演技を見つめるたび彼の芸術性溢れる姿の前では、昨今の試合の結果において、技術点と演技構成点の関係にいちいち心の糸が揺れ動く自分が、霞んで見えて仕方ない・・・。

余談:CHAGEandASKAの「Trip」、「棘」、「群れ」、ASKAの「月が近づけば少しはましだろう」、「けれど空は青」・・・決して売れ線な曲ではないが(個人的感想)、心にグッと突き刺さって涙腺を刺激したかと思えば、快感を目覚めさせまるでチュウドクにでもさせるように、いつも私に悪戯を仕掛けてくる。

昨今のテレビを賑わせている「売れ線JPOP」に全く魅力を感じなくなった私の渇いた心に、CHAGEandASKAは殴り込みをかけながら時に大量の雨を降らせる・・・もう二度と彼等のサウンドから離れることは、ないだろう。

音楽とフィギュアスケートを絡めるのは、今に始まったわけじゃない。それも私の表現方法のひとつでしかない。