銀盤の舞-フィギュアスケートエトセトラ-

スポナビ+ブログから引っ越してきました。

集大成に相応しい「愛の讃歌」 - 鈴木明子 -

 - あなたの 燃える手で 私を抱きしめて -

 日本語詞でこう始まる「愛の讃歌」。

 これは、歌謡曲が全盛期でもあった当時の日本では、「歌手」所謂

シンガーソングライターではない、「歌い手」専門の歌手がたくさん活躍していた頃、「作詞家」もその名を馳せており、加山雄三の作詞などでも知られる「岩谷時子」という作詞家が、訳詞ではなく日本語詞をつけて、日本におけるシャンソン歌手第一人者といってもいいのだろうか、越路吹雪(こしじ ふぶき)がこれを歌い、今も歌い継がれる名曲となった。

 元歌は、エディット・ピアフというフランスの歌手の歌だが、美輪明弘は彼女の人生(生き様とでも言ったらいいだろうか)に心動かされ、美輪明弘自身の「訳詞」で、越路吹雪とはまた一味もふた味も違う、愛の讃歌を今もなお歌い続けている。

 この「愛の讃歌」は、10代のまだ初々しい世代の選手には、とてもじゃないが演じきれる楽曲ではないと思う。仮に演じたとしても、どこか「嘘くささ」が残るものとなってしまったり、中途半端な「愛の讃歌」にならないとも言えなくもない。

 現在28歳の、それこそフィギュアスケーターとしては、ベテラン枠におかれる立場であり、かつ、スケートをしたくても出来なかった時期があった鈴木明子が演じることに、意味がある。

 壮絶な人生を送ったというピアフ。

鈴木明子の人生をピアフに重ねるというのはちょっと違うが、歌というものは「歌詞」や「メロディー」の中に、何かしら共感するものを得られるもので、それは受けてによって「歌声」だったり、「言葉」だったり、「メロディー」だったり、異なる。

 その人それぞれ「異なる共感」の中には、それぞれが自分の人生を重ねてみたりする「自由な空間」というものが存在している。

 シャンソンということから、少々理屈っぽい文章になってしまったが、今夜のカナダ大会 女子ショートプログラム鈴木明子の「愛の讃歌」を初めて見た私は、完璧ではなかったにしても、思わず目頭が熱くなった。少し、うるっときてしまった。

 これは…鈴木明子の集大成に相応しいプログラムだと感じた。

 もっと滑り込んでいったシーズン後半には…ひょっとしたら…バンクーバー以上に感涙してしまいそうな自分がいるような気がしてならない…。

 長久保コーチ、愛されてるな。

 鈴木明子も、とても愛されている。

 そんな愛と感謝を感じずにはいられない、「愛の讃歌」だった。

 フリーでは取りこぼしなく、思う存分アッコワールドを展開して欲しい。