銀盤の舞-フィギュアスケートエトセトラ-

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ソルトレイクシティの“芸術”— 魂の演技 アレクセイ・ヤグディン —

ソルトレイクシティで五輪が開催されたのは、2002年。あれから、9年の歳月が経過した・・・。

フィギュアスケートって、何だろう・・・? —

時折、そんな思いが脳裏に浮かんでは消え、また浮かんでは消えていく、、。

シーズンオフの今、私は最新情報を追い掛ける気には、どうしてもなれない。本当ならば、2010〜2011年の総括や、来季に向けての期待等を述べていくべきなのかも知れないが・・・。

アレクセイ・ヤグディン

フィギュアスケートファンにおいて、この人の名前を知らない人はいないだろうと思われるが、一般の人間には、“エフゲニー・プルシェンコ”程、馴染みのある名前ではないかも知れない。

「世界一美しい」と言われた彼のトリプルアクセルは、パトリック・チャンであっても、その“頭首”を垂れるに違いない。それほど、今、現代において見つめても、ヤグディントリプルアクセルは、美しい。

高さ

回転軸の正確さ

空中での姿勢の美しさ

着氷からのスケーティングの流れ ・・・

現在の採点基準に照らし合わせても、ヤグディンのジャンプには、おそらくたくさんの加点がついたに違いない。

今は、日本人選手に見られるように、アジアの選手も表彰台に上がる時代になったが、トリノ五輪あるいはその前あたりまでだろうか、フィギュアスケートと言えば、ロシアやヨーロッパの選手が世界を牽引してきた時代があった。

ソルトレイクシティ五輪でのヤグディンの演技を振り返る度、フィギュアスケートにも“旧き良き時代”があったことを、思い出してしまう。

旧き良き時代・・・これが“何なのか?”は、敢えて活字にはおこさないでおく。読み手に委ねたい。読む人それぞれの「感性」や「心」で、感じてもらえたら、それで充分だ。

アレクセイ・ヤグディンの持ち味は、“世界一美しい”トリプルアクセルだけではなかった。

彼は、4回転ジャンパーでもある。

ソルトレイクシティ五輪のフリーの演技では、4トウループ—3トウループ—2ループ という、神業をやってのけた後に、単独での4回転も飛んでいる。

後輩のプルシェンコと、4回転時代を築いてきたと言ってもいいかも知れない。世界選手権や五輪で頂点に立つには、男子シングルでは「4回転」が不可欠だった。

そのためか、フィギュアスケートがスポーツであることの何よりの証—それが、ジャンプと思われる方も少なくないと思う。

しかし、ジャンプだけではない。

スケーティング、ステップ、スピンにおいても、間違いなく“スポーツ”を表現していると、私は感じている。

では、表現力って何なのだろう?

ソルトレイクシティ五輪におけるヤグディンの演技然り、“神演技”とも“奇跡の演技”とも言われた、プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」然り、かつての名演技を見つめていくと、表現力が何なのかということが、無言のプログラムの中にも、たくさんのソウルな言葉を配して、訴えかけているような気がしてならない。

後輩のプルシェンコに遅れをとっていたヤグディンは、私生活も乱れる等しながら、己と闘い、自身初の五輪王者のタイトルを獲得したそうだ。

苦しみや辛さ、傷みを知っている者だけに与えられる、魂を揺さ振る演技。

爪先で氷を小刻みに刻みながら、前に進んでいく“ヤグディンステップ”は、フィギュアスケートが進化していたことを感じさせる、見事なステップだ。

ジャンプだけではない。

ステップにも、「個性」が色濃く滲んでいたヤグディン

彼を生き返らせた仕掛人は、タチアナ・タラソワ女史、ニコライ・モロゾフ氏と言っていいかも知れない。ニコライ氏は、才能を引き出す作業には本当に長けている。余談だが、高橋大輔を指導していた折、大輔の引き出しの多さに「ヤグディンのようだ」と、後にニコライ氏は語っていた。

スポーツでありながら、フィギュアスケートが本来持っている「芸術性」を、アレクセイ・ヤグディンは自らの演技で、体現してみせた。

スポーツは、進化していかなければいけない。しかしながら、ただ進化すれば良いというものではない。

そこには必ず、「魂」が宿っていて欲しいと思うし、それがひとつの表現力にもなって欲しい・・・。

今の採点システムでは、「平均点」を求めるのも重要な要素となってしまっているように感じるが、平均点は下手をすると、没個性になってしまいがちだ。それでは意味がない。

許される範囲で、「個性」をいかに出していくか・・・心に残る演技とは、まさにそういう演技だとも言える。

フィギュアスケートが、今後も支持されるスポーツであり続けるためには、ファンもジャッジも、連盟の役員達も、そろそろ“見つめ直す”時期にきているのではないだろうか・・・と、ヤグディンの“渾身の演技”を振り返る度、プルシェンコの“ニジンスキーに捧ぐ”を振り返る度、そんなことを感じないではいられない・・・。

フィギュアスケートって、一体何なのか・・・? —

“過去”という時代を生きた「名選手」や「名プログラム」の中に、その答えは必ず隠されている。

そんな気がする・・・。